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文化貢献石橋正二郎と4つの文化施設

石橋財団の創設者 石橋正二郎は若年の頃から文化事業に取り組み、数々の事績を残しました。ここでは、正二郎が建てた4つの文化施設を紹介します。

ブリヂストン美術館で憩う石橋正二郎

ブリヂストン美術館

戦前から戦後にかけて西洋絵画と日本洋画の一大コレクションを形成した正二郎は比較的早い時期から美術館創設の意思を抱いていました。
1950年に渡米した際、正二郎の美術館構想は具体化します。各地の有名な美術館を訪問して、「コレクションを自分一人だけで愛蔵するよりも、多くの人に見せるため美術館を作り、文化の進歩に尽したい」という決意を強くしました。

ブリヂストン美術館開館時のブリヂストンビル(1952)

1951年に、正二郎は東京の都心の京橋にブリヂストンビルを建設し、ビルの2階全てをブリヂストン美術館として、1952年1月8日に開館しました。
当時の日本は終戦から7年足らずで、復興と占領のさなかにありました。人々は優れた芸術を渇望していましたが、東京には西洋近代絵画と日本近代洋画を展示する美術館が存在しませんでした。そうしたなか、都心において西洋絵画、日本洋画の名品を一般に公開したブリヂストン美術館は大きなインパクトを与えました。

開館記念展

開館後、ブリヂストン美術館は石橋コレクションの常設展示や特別展示だけでなく、専門家・著名人による美術講座や、記録映画の制作、レコードコンサート、演奏会など、美術・芸術を基軸とする幅広い企画を展開しました。こうした活動は少しずつ内容を変えながらも、現在のアーティゾン美術館の活動に受け継がれています。

土曜講座で講演する武者小路実篤(1952)
日本の作曲家を紹介するための作品演奏会「作曲家の個展」での芥川也寸志 (1957)

石橋文化センター

正二郎は生涯を通じて、故郷である福岡県久留米市の発展に尽くしました。

石橋文化センター全景(1956.4.26)

1953年の欧米視察で正二郎は西欧文化に強い印象を受け、久留米の文化振興のために文化センターの建設を決意します。計画はブリヂストンタイヤの創立25周年記念事業の一環として実現され、「石橋文化センター」として久留米市に寄贈されました。約3万平方メートル(当時)の敷地内には、美術館(石橋美術館。現・久留米市美術館)、体育館、50メートルプール、文化会館(仮設)、野外音楽堂、公園施設などが設けられ、1956年4月、一般に公開されました。石橋文化センター正門には正二郎の自筆を元に「世の人々の楽しみと幸福の為に」と彫られています。

その後も、石橋文化ホールと石橋文化会館の開館(1963年)、日本庭園の造営(1970-72年)、石橋美術館別館(1996年)など、石橋文化センターは拡充が図られ、現在は久留米市美術館を中心として、約6万平方メートルの広さを持つ久留米市の地域文化の拠点となっています。

ヴェネチア・ビエンナーレ日本館

正二郎は美術を通じた国際交流においても足跡を残しています。イタリアで1895年以来開催されるヴェネチア・ビエンナーレでは、世界各国が代表的アーティストの作品を自国パビリオンで展示し、いわば美術の実力を競い合っています。日本は1952年から公式参加し、イタリア側の用意した土地に常設パビリオンの建設を勧められましたが、政府の資金難により建設できない事態に陥っていました。用意されたのはパビリオンに適した最後の敷地で、イタリア政府からは、1956年までに建設の見込みが立たない場合は第三国に割り当てる、との通告を受けており、これを逃すと将来にわたって日本のパビリオンが実現できなくなる状況でした。相談を受けた石橋正二郎は建設資金の支援を決意し、1955年に日本館の建設が始まりました。

ヴェネチア・ビエンナーレ日本館

吉阪隆正設計による日本館は1956年春に竣工。その重厚で堂々とした造りは同年のヴェネチア・ビエンナーレの話題となりました。ヴェネチアに渡って開館式に出席した正二郎は「名士、各国新聞記者など五〇〇余名の集まりで雑踏をきわめ、日本館の建物は想像以上のものとして好評をはくし、世界各国に報道されわが国文化のために喜びであった」と記しています。

ヴェネチア・ビエンナーレ会場での石橋正二郎

東京国立近代美術館

石橋文化センターの石橋美術館が地域レベルの、ヴェネチア・ビエンナーレが国際レベルの貢献とするならば、国レベルの貢献といえるのが東京国立近代美術館の新築寄贈です。
東京国立近代美術館は1952年に東京の京橋に開館しましたが、手狭で、早くから移転の必要に迫られていました。移転の最適地として挙げられたのは皇居外周の北の丸代官町の国有地。しかし、過去の閣議決定でここには施設を建設しない方針が定められていました。
東京国立近代美術館の評議員を務めていた正二郎はこれらの事情を知り、北の丸代官町に建設が許されるならば私財を投じて美術館を新築し、国に寄贈することを申し出ました。当初、閣議決定は絶対とされたため実現は困難と思われましたが、正二郎の熱意や、小学校時代からの友人で時の法務大臣の石井光次郎(石橋財団二代目理事長)の尽力もあり、1966年に建設の閣議決定が行われました。

東京国立近代美術館

谷口吉郎の設計による建物は1967年に起工し、2年以上の工期をかけて1969年に竣工、正二郎はこれを国へ寄贈しました。

正二郎はその生涯に4つの文化施設をつくりました。ブリヂストン美術館、石橋文化センター、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館、東京国立近代美術館。建設の経緯はそれぞれ違いますが、いずれも、文化・芸術の楽しみを多くの人とともにしたい、という正二郎の願いの表れといえます。